【掌中の珠 最終章3 】  





「また頭痛ですか?」

机の上の薄明りが、積み上げられた竹簡や転がっている筆の影をゆらゆらと動かす。
広い執務机に座っている主は、その声に顔も上げなかった。額にあてている手も動かない。
文若は床にちらばっている竹簡を避けて机の前に立った。
「とりあえず先陣の出兵の準備は整いました。明日の早朝に出発できます。並行して本隊の準備は進めています」
そう言って文若は新たな竹簡の束を孟徳の前に積み上げた。
「これは報告のみなので、読まなくてもいいですが」
孟徳の目がゆっくりと文若を見上げる。
「本隊は送らずにすますつもりだ」
「承知しております。圧力になるかと」
「そうだな」
言葉とともに深いため息が孟徳の唇からもれた。執務机に肘をつきもう一度額を揉む。
「文の返事は来たか?」
文若は首を横に振った。「早馬だとしても明日いっぱいはかかるでしょう。もし返事があるようなら行軍の途中になるかと思います」

あの教師の父親が玄徳と本当に手を組んで挙兵したとしたら、かなりやっかいなことになる。せっかく落ち着いた三国同盟が壊れ、また乱世となるだろう。たくさんの命がなくなり、金を使い、土地を痩せさせ、国力を衰えさせる。
だが孟徳はそうはならないようにすでに十分に手は打っていた。あの牧は前から危険分子だった。なかなか排除する機会がなかっただけで、孟徳が綿密に張り巡らせた網に追い込み、ようやく飛び込んできてくれた。あの翡翠の首飾りをくれた、例の牧の親類も排除を望んでいる。後釜を狙っているのだ。すべて思い描いた設計図どおり。……あのこと以外は。

孟徳はもう一度ため息をつくと、机の横に置いてあった冷え切ったお茶を飲んだ。
「処刑はどうなった?」
視線をあわせずにそう聞く孟徳の横顔を、文若は静かな瞳で見つめた。
「済みました。教師のほうは首を牧の父親へ送っています」
孟徳は返事をしなかった。昼下がりにあの教師と楽しそうに笑いながら子どもたちに文字を教えていた花の笑顔が目の前をよぎる。涙を流しながら茫然としていた花の青ざめた顔も。
あれから孟徳は花とは会っていなかった。
「あの娘はどうされるおつもりですか?」
「……」
「反対派が何度も陳情に来ます。あの娘も危険ゆえ処刑するようにと。丞相が明日出兵された後に何をされるか……」

「孟徳、いるか?」
文若の言葉の途中で扉をバタンと音を立てて元譲が入ってきた。「花のことだが……」
「ちょうどその話をしていたところです」
元譲は文若の言葉に「そうか」とうなづくと孟徳に向き直った。
「女官どもから聞いたんだが、あれから飲まず食わずだそうだ。無理に食べさせてもみたが吐いてしまうと。すっかり憔悴して夜もあまり眠れないようで、ずっと横になって何もしゃべらないらしい」
孟徳の瞳が動く。
「医者に見せたほうがいいんじゃないか?と言いに来たんだ」
孟徳はふと、玄徳だったらこの件をどう処理したのだろうと考え、そんな自分に苦笑いをした。玄徳なら少なくともあの子をこんな事態にはしないだろう。だがどうするのが正解なのか、孟徳にはわからなかった。自分は自分のやり方しかできない。
あらゆる権力と財力、そして兵力を好きなように動かし人よりもうまくやるのに慣れていたのだが、なぜか彼女に関することはうまくできない。
孟徳はもう一度額を揉むと、顔をあげた。
「医者に見せてくれ」
元譲は「わかった」というと部屋を出ていこうと踵を返した。その背中に孟徳は続ける。
「それから、彼女を行軍に連れていく。文若、その手配をしてくれ。元譲はあの子にそれを伝えてくれ」

「なに」
「連れていく?」

元譲と文若が同時に声をあげた。
「なんの名目で連れていくのですか。あれはもう軍師ではなく、戦闘にも役に立ちません」
「今俺が言ったことを聞いていたか?飲まず食わずで憔悴している。行軍など連れていけるわけもない」
サラウンドで否定する二人に対して、孟徳はきっぱりと言った。
「俺のくつろいだり寝るための輿を準備して俺の天幕にいさせればいい。俺のわがままで奥方を連れていくと言えば何も言われないだろ。横になれるような十分な広さの馬車と輿を用意し、医者も連れていく。食事や生活に不自由がないよう細心の注意を払って準備しておけ」
文若に向かってそういうと、孟徳は今度は元譲に顔を向けた。
「彼女の部屋に医者と一緒に今から行って、このことを伝えてきてくれ。嫌だというだろうが説得するんだ」
そう言い切ると、出ていけというように右手を顔の前で大きく横に振り、机の上の竹簡に手を伸ばす。もう話しは終わったという合図だ。
「そんな…」
「おまえが…」
言いかけた文若と元譲は、もうこちらを見てもいない孟徳を見て顔を見合わせた。いつもこれだ。
二人はため息をつくと孟徳の命令を実行するために部屋を出ていく。明日の早朝には出兵で、孟徳と元譲は城を立つ。文若は城に残るが出兵までにやることが山積みだ。そのうえ今の孟徳の命令をこなさなくてはならない。
部屋の前で二人は軽く会釈をすると、急ぎ足でそれぞれの方向へ去って行った。

まったく孟徳は…!とイライラしながら花の部屋に行った元譲は、げっそりとやつれた花を見て言葉を失った。
花は、連れて行った医者の指示には素直に従って舌を出したり聞かれたことに答えたりしているが、中身が空っぽなからくりのようだ。
「おまえ……」
大丈夫か、と聞こうとしてやめた。大丈夫なわけはない。顔色も悪いし表情も暗い。動きものろく、いつものくるくると動く賢そうな瞳も、物おじしない笑顔も何もなかった。
そして寝台の足元から黒い鎖が伸び、天蓋へとつながれているのが見え、元譲は視線を花からそらせた。

大変弱っている、滋養が付くものを食べ温かくしゆっくりと休養を取ることが必要だという診察をつげ、医者は去っていった。
行軍に連れていくのならすべてそれの正反対だ。夜の眠るところだってまさか野宿ではないだろうが天幕の急ごしらえの寝床だし、食事も城と同じとはいかない。いや、あそこまでの道は山をいくつか越えなくてはならず道は相当細くなる箇所がある上にデコボコだ。ひどく揺れるだろう。
今目の前にいて目もあわせないこの花を見たら、孟徳は先ほどの命令を撤回するかもしれない。だが、今からもう一度孟徳のところに花を連れていくのも、孟徳をここに呼ぶのも無理だろう。
それに反対派が花を処刑するようにと強硬に主張しているのは元譲の耳にも届いていた。この城で花が静養していたとしても孟徳が行軍でいなければ、反対派はなんらかの難癖をつけて花を処刑してしまうだろう。

元譲は、ゴクリと唾をのんで一歩前へ出た。
「あー…」
そういって言葉を探したが、もとから言葉巧みに説得できるような性質ではない。元譲はストレートに結論からいうことにした。
「孟徳が、今回の行軍にお前も来るようにとのことだ」
元譲がそう言っても、寝台の上でこちらに背を向けて寝ている花は動かなかった。
「体調が悪いなかたいへんだとは思うがー…」
言いかけた言葉は、花の言葉で遮られた。
「処刑はもう終わったんですか?」
固く、平坦な声だった。何の感情も含まれていないのが逆に元譲の背筋を寒くする。
花の読み書きの教師の女性と、孟徳と城外に出かけた時に花が見つけた幼い兄弟のことだ。あの兄弟に花が目をかけ、城に出入りさせるようにしたというのは元譲はあとから聞いていた。
「あ、ああ。終わった。今日」
「……」
花は何も言わない。しかしこちらに向けたままの背中が固くこわばったのを、元譲は見た。

いたたまれん……

そうか、孟徳はこれを自分が花に告げるのも嫌だったんだな。だから俺に……
くそっと思いながらも、元譲はつづけた。ここは言わねばならないのだ。
「いろいろと……いろいろとつらいだろうが、出立は明日の早朝だ。何も持たなくてもいい。すべてこちらで準備しておくから、そのつもりでいてくれ」
じゃあ、と元譲がそそくさと部屋から出ようとすると、花の声がした。

「私に選択肢はあるんですか?」
元譲が振り向くと、花が寝台の上に起き上ってこっちを見ている。ぼんやりとした灯りの中でやつれたその姿は、まるで幽鬼のようだった。
はかなく闇に溶けてしまいそうなその姿とは裏腹に、目線だけはまっすぐに元譲を見つめていた。
「いや……お前は行くか行かないかは選べない。」
「……」
花は下を向いた。唇をかみしめているようだ。
どうにかしてやりたいがどうにもできない。
「私を連れて行ってどうするんですか?何の役にも立たないですよね」
花が目を伏せて聞く。声もか細く生気がない。
「別に何かをしてもらおうというわけじゃない。あれだ、孟徳がお前にそばにいてほしいだけだ」
「……」
「こんなことがあって…まあ、つらいだろうし、体も本調子でなくて気が乗らないのはわかる。が、申し訳ないがあいつのわがままを聞くと思って来てほしい」
「……」
「無理やり連れていくのはあいつも嫌だろうし、できればお前から来ると言ってもらえるとありがたいんだが」
これで断られたら自分はいったいどうすればいいのか。ひきずってしばりつけてでも連れていく手配をしなくてはいけないのか?
こんな、今にもはかなくなってしまいそうな彼女を?

ずっと寝台の上に座り下を見ていた花は、顔を上げて元譲を見た。
「行きます」
元譲はほっと肩の力が抜けた。よかった。これで面倒なことにならずに済む。
と同時に花に対する申し訳なさがこみあげる。
「すまないな、いつもいつも」
「でも、孟徳さんとは会いたくないです」
花は、目線を元譲から外してまっすぐと空を見つめていた。
「……」
花の言葉に、今度は元譲が黙り込んだ。
「ここでも、行軍でも、孟徳さんとは同じ場所にいないでいいようにしてください」


元譲が、またもやたいへん言いにくく居づらい状況でそれを孟徳に伝えに行くと、孟徳は黙っていた。
乱雑に竹簡が散らかっている執務室に肘をつき、手を顎にあてて無言のままだ。
これで孟徳からNOと言われれば、今度はまた花にそれを告げにいかなくてはならない。
元譲が、だ。
目の前で泣かれたり感情的に責められたりするのを、なだめるのか?俺が?
孟徳に会いたくないという花の言葉を、当の孟徳に伝えに来なければいけないだけでもう十分じゃないか?
長い付き合いだが、元譲には今の孟徳が何を考えているのかわからなかった。
花に一緒にいたくないと言われて傷ついているのか、何かまた策を考えて花を自分の思う通りに動かそうとしているのか、それとも花が来てから変わりつつあったあいつの柔らかいところがまた固くなってしまったのか。

無言のまま灯りに照らされている孟徳は元譲から見ても不気味だった。そのうえこの沈黙は怖い。ああ、居づらい。

「わかった。いいよ。花ちゃんの言う通りに準備を」

孟徳の言葉に、元譲はほうっと肩の力を抜いた。
「わかった。文若に伝える」
これで自分の仕事に戻れる。
元譲は逃げるように孟徳の執務室から出ていった。
あとに残された孟徳の表情はみないようにして。















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